カリスマ創業者ってなんだろ

本田宗一郎井深大展」なんてのを観に行った。展示自体は、ホンダとソニーの製品展示、お二人の発言等が中心。おいら、ああいうの好きで、2時間あまりいたかなぁ。

まず、感動したのが、ソニーの前身東京通信工業のG型テープレコーダの展示の場所に流れていた音声。なんと昭和20年代のG型が完成したすぐぐらいの、井深さんと開発者の肉声群、一年後の自分達に語っている録音。おいら、あの時代は「色のない時代」としかイメージできないぐらい暗いイメージを持っているのであるが、若い技術者がジョークをテープに吹き込んでいるのを聞いて、生き生きした人間がその時代にもいたんだと妙に感動しながらしゃがんで聞いてた。残すことのできる歴史を持つ企業はすばらしいと思うと同時に、その術を作りその術を使って歴史を残そうとする人間達の、なんと生き生きしたことか。

展示を見進めていくと、昔から感じているある疑問がわきあがっている。確かに「本田宗一郎井深大」は、戦後最も成功したカリスマ創業技術者ではある。でも、そこから生み出される製品は、彼らそのものでもなく、彼らの思いの具現物でない。年を進めるごとに、創業者とその会社の製品との乖離が大きくなってきているのを感じられるのだ。
そう、この人たちは、ずっと技術者をやっていたわけではないのだ。この人たちが製品を作っていたわけではないのだ。
そして、最後には、その企業は創業者を卒業し、創業者は子離れする。そこがすごい。

井深さんはプレイステーションを作らなかったし、本田さんはASIMOを作らなかった。後にそれらを作る「企業」を作ったのだ。

ちょっと考えを改めることにした。卒業するのはカリスマ技術者のほうではない、おいら達の方だ。
見てろよ。