たま

よく人間は、頭の中にある意識が、自由自在に体を動かしていると、勘違いすることがある。
現実はどうだろう。
ぜんまいか何かでギコギコ動いている人型が、得体も知れないモノ、おそらく魂と呼ばれているモノを引きずっている、そんなところではないか。
人型が前に歩くたびに、その糸を引いているようなモノは、ちょっとづつ磨り減っていく。

結局のところ、結果しか評価できない、という人がいる。あなたが実らせたおいしそうなその実を、捥いで剥いておいしくいただきたいのよ、ということである。
失敗に学べという。負けて失って蹲っているその様を見て、底は通らないようにうまくよけて、私は勝組になりましょう、ということである。

他人はいつも、人型のほうを見ている。実は本人も、人型のほうだけを見ていることがある。人型がギコギコ動いているのを見たいがために、イッパイイッパイぜんまいを巻いている。ぜんまいを力強く巻こうと、ゆっくり巻こうと、結局のところ出てくる力とそれが続く時間は、同じだったりする。

電車を使って30分でたどり着ける場所を、50分かけて自転車で行くとして、ペダルをこぎ続けた50分より、電車を待つ駅のプラットフォームの5分が無駄に思えるのはなぜだろう。
もしこの世の中に、どこでもドアが発明されたとして、自転車は絶滅するのだろうか。

なぜ、蛍を見るとき、その光るお尻一点を見るのではなく、輝跡を見て美しいと思えるのだろうか。

もしもし、人型よ。油を差してあげるから、首を後ろに回してごらん。
何かが蛇行したような跡がついているのが見えるかい?
その美しい軌跡をたどって、お前のお尻の後ろにあるのは、鈍く光を反射する「たま」じゃないかい?
引きずられているうちに磨かれた、「たま」がそこに無いかい?