お参り

ペグ注射中に通いなれたH病院を海側に少し行くと、自宅に一番近い神社、塩屋神社がある。
昔この辺に塩田がありその守り神であると同時に、あまんじゃく伝説に関係していたりする。
最後にお参りする神社をここにした理由は特にないのだが、一番祈りたい夜にあったのが、ここだった。

明日、この体から血液を採る。
この検体をRT-PCR法にかけ、C型肝炎ウィルスRNAをターゲットにして何度複製しても、機械には「光」として検知されるその断片が見つからなければ、形式的にはウィルスを撃退したと考えてよい事になっている。いわゆる、インターフェロン治療の「完全著効」という事。
だから、明日の朝の我が体の状態が、この一年半あまりの生活、その集大成を意味しているのである。

大した苦労も、努力もしていないが、それでもこの間には、自分自身にいくつかの制限を与えてきたし、体を前向きに働かせる事をしてきた。飽きっぽい、いい加減な性格にしては、良く続いたものだと思う。
その所為もあって、今この瞬間の体の状態が、この15年間でのベストに近いという実感がある。多少の老いもひっくり返すほどの状態。
何のためにそんな事を続けたのか、改めて考え直してみると、やはり「肝臓をいたわる」とか「治療の効果を最大限に引き出す」といった事とは別次元の目的意識だった事に気づかされる。

それまでは、「体」が「頭」に引きずられて、すり減っていくような状態だった。「頭」は重たい「体」を引きずりながら、相当うんざりしていた。
「頭」と「体」との間に、「絶縁体」が焦げ付いていて、接触不良を起こしていた。だから、15年もC型肝炎やその他の事を放置できていたのだ。
この一年半あまりは、その「絶縁体」をヤスリで削って、再び「体」と「頭」をつなぎ合わせる作業だったに違いない。
この作業を行いながら、やっと「頭」は「体」を意識し始めた。「頭」が受け取る感覚は、「体」を介してでないと得られない事をはっきり意識する事ができたし、「病」を認識し、直視できるようになった。
やっと、である。

この間、様々な所にうろうろと足を運んだけど、その私の周りには、自然があった。かなり導通の良くなった心身は、それが放つ力を敏感に受け取るようになった。
大きな力を放つ自然には、必ず神様がまつってあって、神社があった。宗教とか信仰とかと違う、尊敬の念のようなものが、それを拝む動機となった。多くの日本人は、この感覚を共有できるのだと思うが、つい最近まで私にはない感覚であった。

それでも私は、偽善に満ちた博愛主義者だから、いつもは欲を出して、みんなの幸せだとか、世界平和なんかをお願いする、雑念をもって神様を拝んだりする。
でも今晩だけは真っ当なエゴを持って、自分自身のために、尊敬する自然に頼み事をした。
「どうか、明日の体が、この生きてきた年月の中で、最も良い状態でありますように。」
社に頭をたれたその瞬間、どこからか歓声が聞こえた。日豪戦で、日本に良い事があったらしい。

禊は終わった。やれる事はやった。あとは、明日の朝を迎えるのみ。
おやすみなさい。