東海道を走り終えて感じたこと

相変わらずの旅行下手である。
よく、旅というのは、その土地の文化や歴史に触れる行為であるという。あるいは、自分を探す旅という言葉もある。そのいずれも果たせていないのではないか、ただ長距離を自転車で移動しただけでないのか。

正直、道中自分のことを考える余裕がまったくなかった。次の宿場まで後何キロあるのか、本陣跡はどこにあるのか、この坂をどうやって越えるか、今日何時にホテルに着けるか、パンクしていないか、異音の原因は何か、だるい、つらい、おなかすいた、、。仕事や今後の人生の事など考えることなど、まったくできないほどの余裕のなさ、あわて様である。

タイヤがいかれたときは、さすがに落ち込んだ。タイヤが近くで見つからなかったときは、それまでの400km走行が水の泡、さすがにギブアップを考えた。
はっきりいって、私のミス。タイヤが劣化していることは、2人の人に指摘されていたし、ネットで購入するつもりで注文寸前までやっていたのに、何かよくわからない理由でそれをストップさせた。今考えてみると、非常にばかばかしい行為である。
それでも、最終的にはノートPCで専門店を検索でき、タイヤを購入して修理することができたのはよかった。頭の悪い、応用力のないおいらでも、多少のトラブル対応能力があったということであろう。
そういう意味で、この自転車には、いい経験をさせてもらった。今までも、いろいろなことを気づかせてくれた。前から感じているけど、この自転車は自分を映すの鏡であり、不恰好でつぎはぎだらけな自分自身なのだ。この鏡を見て、いつも自分自身を知ることができる。

まったくやり遂げる自信がなかったけど、ギブアップしたくないというのは基本的にあった。年末年始サイクリングは、「膝」でギブアップした。あの膝を痛めた理由はいくつかあると考えているが、その克服が今回の課題だった。
踏むペダリングをやめるために、気に入らないけど奴からアドバイスされ、昔から敬遠していたビンディングペダルを導入。医者の進めもあり、膝を支えたりクッションとなる筋肉を鍛えるためにジム通ったり。膝の違和感があるときは、不快だけど膝サポータをして走行したりした。
ま、結局のところ、一日に走行する距離を抑えたのが、一番有効だったようなきがする。その日の4時に走行を終えれば、さまざまな後処理が余裕を持って行える。あとは、4時に到着できるペースで走ればよかった。よって、100km強がぎりぎりの線。しばしば、7時出発なんていう、早起きもした。
結局、膝はほとんど痛まず、筋肉痛もほとんどなく、だるさも残らなかった。

その土地の文化や歴史を触れる手段として、「観光」があるのだが、これがまったくだめ。余裕のある日は、コース沿いの史跡を写真にとっていくぐらいのことはできたが、名勝見所をかなり通過してしまった。走行中気づいたても、無視したものが多い。時間をかけてじっくりそういうところを回っている人の紀行文を見ると、本当にうらやましくなる。

ただ、500kmも離れていると、人々の息遣いも変わってくるもので、その変化を程よいスピードで感じることができた。
たとえば、買い物や食事をして清算を済ましたとき、どのあたりまで「おおきに!」が出てくるのかなど。あとのほうで「するってぇと」なんてのが自然に出てくるのが楽しくて。

地域差ということでいえば、宿場街や街道を守るということに関して、「温度差」が感じられた。
城下町は、宿場としてあえてあれこれするということはなく、歴史を感じられる街づくりに熱心の様。
長期連休ということで、草津などいくつかのところでは宿場祭りをやっていた。そういうところは旅人が集まり、活気があった。
関宿の風景は、東海道宿場そのもの、今でも多くの商店が旅人をもてなしてくれるとともに、バックとなる山々をさえぎる電柱もない。
一番うれしかったのは、「ど真ん中袋井」。ここの御茶屋は、はっきり言って地域の人々がたむろしているだけなのだが、気軽に「はいっておいで」なんて声をかけてくれ、みやげ物の押し売りもなく、お茶やお菓子を振舞ってくれる。旅の自慢をちょっと聞いてくれ、世間話から天気や風向き、走行ルートなどアドバイスもしてくれる。野次喜多さんも、こういうところで楽しんだはず。ここに招かれたとき、へんなアトラクションや資料館よりよっぽど得るものがあった。自分の地域が宿場であることに「愛」を感じているように思う。
残念ながら、街道や宿場を愛していない地域も少なからずあった。こういうところを通ると、旧東海道が寸断されているような気分になった。

一箇所、旧東海道ではないところを走らざるを得なかった。桑名から宮までの「七里の渡し」は、時々屋形船のようなものが通っているらしいが、自転車は乗せてもらえそうにない。仕方なく、国道などを直線に走行することに。
自動車がうなりをあげて先を急ぐ。とにかく埃っぽい。歩道が確保されているが、走行(あるいは歩行)が困難なほどゴミが放置されている。
川の街出身だから信じられなかったが、多くの河川にかかる橋は、歩道橋への階段を登ることを強制される。
自動車がすべてを優先し、人間が楽で安全に歩行することを許容しない道。ひょっとすると、交通死亡事故No1は、こんなところにも原因があるのではないかと思った。旧東海道とのコントラストが、多くの示唆を与えてくれていると思う。

新幹線で約二時間二十分で移動できるところを、自転車で八日もかけて走った。昔の人は歩いて一ヶ月弱を要したという。今の考えからいくと、たった500kmの移動に、まったく「時間の無駄」。
いま、われわれにかせられている「時間の無駄」という概念を取り払ってみると、どうなるだろう。500kmというのは、ゆっくり時間を使える「豊かな距離」なのではないだろうか。

道中、「大阪で仕事がなくなったから、名古屋へ仕事を得に、自転車で旅する人」に出会った。この交通の便が整い、かつ時間に対して落ち着きのない時代では、ちょっとありえない行動ではあるのだが、東海道が活躍している時代には、気軽に許されないとはいえ、こういうことが多く行われていたことが予想される。このように追い込まれる状況も悲しいことであるにしろ、この行為が許容できる時間を街道が許してくれているということだろうか。

現代の世に、旧東海道を踏破する人、自転車で走破する人は多くいる。この数日の間でも、おいらのほかに何人かそういう人に出会った。
この目的、意味って何なんだろうか。やはり画一的なものはないにしろ、これに費やされる「時間」をどのように豊かに「消費」するかということになるのであろう。
9日間なんて、テレビやゲームを見ながらすごすこともできる、実際私はそんな生活をしていたこともあった。
さまざまなスポットへ行き、その場で遊んだりおいしいものを食べたりすることもできる。そんな時、「移動」は限りなく0であるほうが望ましく、本当に「どこでもドア」が必要とされている。
旧東海道は、その「移動」に豊かな楽しみを与えてくれる媒体なのかもしれない。雰囲気や文化、歴史や名所が連続している500kmである。
おいらが、ちゃんとそれを楽しめたかどうかは自信がないが、一端は触れたような気がする。

東海道を作ったのは、軍事的、政治的目的のために、時の権力者が作ったのがきっかけかもしれない。
でも本来、道というものは、人間が移動することによって自然にできるものである。ま、別に、これは人間に限った事象ではなく、足を持つ動物が、それぞれの目的を持って土地を歩くことによって踏み固めることによって、道ができるのである。元来、道は、移動する人それぞれが作っていくものである。
「富士山が左に見える」名勝が東海道にいくつかある。左富士は、道が自然条件かなにかで遠回りする方向に向けられたときに起こる、別に意図してやるのではないこと。でも、「あそこはね、富士が左に見えるんだが、これがいいんだよ。」なんて旅人の自慢話が広がり、次第にそれを見ることが旅の楽しみになっていったんだろう。
江戸時代というのは、その土地の活性化のために、どんどん「名産品」が作り出される、商品開発の豊かな時代だったという。物資流通の制限されている時代の上、やはりその名物を得ることが、旅の楽しさだったに違いない。
「名勝」や「名物」を体験するため、人が歩き、道を作る。そして、そのことが次の「名勝」や「名物」を作っていく。
やはり東海道は「庶民」が作っていたのだと思う。東海道が活発な時代は、「庶民」が活躍していた時代にほかならず、それは非常に豊かな時代だと思う。

東海道400年を期に、街道のそのような役割を見直すことができた街には、昔ながらの「名勝」や「名物」の継続管理とともに、新しい「名物」を作ったところもあった。そうすることは、旧東海道を維持し続けることの重要な要素であるような気がする。
街道筋の街には、これからも愛を持ってがんばって欲しいと思う。旧東海道の存在は、「やさしい交通」、「豊かな時間」を今後の時代に残すために、非常に重要な要素だと思うから。

今回の旅もいろんな人々に会った。同じような旅人、街の人、ホテルの従業員、知り合い、、。時速数百メートルの旅では、なかなかこういう風にはいかない。
だけど、東海道に残していった「面白いもの」がどうしても気になって仕方がない。やっぱり、昔の旅人のように、ゆっくり歩いて体験してみたい。
とすると、やっぱりサラリーマン生活ではなかなかやってけないことで、今の旅人と同様に「リタイア後」ということになるのかもしれない。
それまで、今以上の魅力を持つ東海道が続いていて欲しいと、強く願うのである。