越える

山は越えられるが、壁は越えられない。
山を越える気持ちよさは、サイクリングと日々の生活、仕事に共通するものがある。登りはひたすらきついが、天辺を過ぎてからポテンシャルエネルギに身をまかす快感こそが、登りのモチベーション維持の要因。
とにかく、目の前に壁がある。壁は大抵越えられない。扉がある。恐らく開けばあちら側に行けるのだろうが、なぜその行為は不安に満ちているのだろうか。なぜかその度合いは、壁の厚さや材質に無関係である。
ノックしてみる。どうぞ入りなさい、と聞こえる、当然だ、壁の奥の奴がおいらを呼びつけているから。ただ、それがその人の本当の意思で無いような気がして。
ノブを握る手は右か左か、挨拶するのはお辞儀の後か前か、ノックは二度か三度か、そんなことをうまくやろうと。
バカな。馬鹿げている。山は越えるために存在するが、壁は空間を仕切るためにある。向こうの部屋に移る事に意味はなく、向こうの部屋で何をするのかが大事なのに。