「web2.0時代の何とか」を語る前に思うこと

ま、正直いって、web2.0という言葉が好きでない。はっきり言うと、web2.0=matrixって感じの偏見が、おいらにはあるから。
そんなの、googleやyahoo、amazonITMSなんての考えたり、なぜタダでブログ構築なんかできるかってのを考えて、参考書のひとつでも読めば、誰でもそういう発想になりますって。

自由主義というのがなぜ成立するのか?を教えてもらったときの衝撃に似ている。
産業革命後、なぜ我々は自由なのか。自由という状態は、好きなときに貨幣を使っていろいろなものを売買でき、貨幣やそれと対等に扱えるものを所有していると宣言できる状態、それがたとえばその本人の時間(=労働力)に関しても、ということ。
そしてここが一番大事なのだが、多くの場合さまざまな力を使って、一度身包みはがされてリセットされた状態で放置された自由人、それが自由主義社会的市民って事。産業資本家にサラリーマンとして生きることをよくわからない理由で強制された上での自由、ま、これが市民にとっての自由主義なわけです。
自由人である市民が生きていくには、自分の時間を産業資本家に切り売りする。それは資本家にとっては労働力なわけで、それを使って労働力に対する対価(=賃金)より価値の高まった生産物を作って売り出す。また身包みはがされている自由人である市民は、生活するための物資を作る方法まで産業資本家に奪われているため、労働力の対価である賃金を使って生産物を買い、それを消費する。このマッチポンプ的サイクルが、自由主義社会なわけである。

web2.0における市民というのは、この自由主義的社会構造に良く似てたりする。
知的好奇心を満たすためにwebに情報を求めたり、表現する欲求を満たすために掲示板やブログに書き込んだりする、情報の消費と生産によって発生する動き、それ自体を吸い込んで利益にしてしまう、web2.0でのブルジョワジーがいる。だからこのブルジョワは、webから情報を求める方法=検索、webへ情報を発信する方法=CGM(消費者が生成するメディア)編集機能(ブログやレビュー機能)を、プロレタリアートに提供するのである。
web2.0というのは、ITのチープ化によって市民に提供するサービスを保持するコストより、市民が吐き出す何かから一部の誰かが得られる付加価値のほうが高くなっている状態のことを、「2.0」というよくわかんない数字をつけて呼んでいるだけ。

マシーンはマトリクスにという、人間に喜怒哀楽を発生させる場を提供する。人間はその場で喜怒哀楽を感じ、快楽を得、そして自分がマシーンにとっての発電機であるということを認識せずにいる。マシーンは、人間が作るエネルギーを刈り取って、何不自由なく生活する。
なぜか、web2.0というサイクル/システムは、matrixのサイクル/システムに似ているのだ。
いや、自前でサーバを立てれば、web2.0に依存しないネット生活がおくれる、いわゆるマトリクスから外れたザイオン側の人間になれる、という議論は成り立つ。であるが、困ったことにザイオン側の人間の生業は、大なり小なりやはりマシーン側の利益になっているところがあるのと同じである。
ただ、幸いなことに今のところ、自分がマシーン側になるのか、ザイオン側になるのか、エージェントスミスのようにプログラムになるのか、それとも人間乾電池のままでいるのかは、努力しだいで選択できるようである。

ま、とはいえ、現代は、サラリーマン市民として生きていっても、結構幸せだったりする。ブルジョワだのプロレタリアだの気にせず毎日生きていれば、意外に快適に生活できるのである。
だから、私はweb2.0に人間乾電池のまま、喜怒哀楽な心の動きを楽しもうとしているわけです。ザイオン側にくる必要性はまったく感じてないわけです。
ということで、以後、web2.0=matrix論は一切出すつもりはないのです。ただ一度だけ、こういうことを書いておきたかっただけです。
ま、冷静に考えて、小市民的に「web2.0時代の何とか」という話を書くのは、結構恥ずかしいことなんですよ、きっと。